建築家による名住宅を、MOSAKI・田中元子が訪れる。
長く続いていく暮らしの断片を捉えた小さな物語。
第2話をお届けします。(今までのお話はこちらからどうぞ。)
新しい白シャツをおろした。
袖に身体が泳ぐ晴れやかな一瞬に、こころが踊り始める。なんたって、今日はチキンハウスに向かうのだ。
だから、こうしたかった。
チキンハウスはきっと今日も、新しいシャツのような場所であるはずだから。
変わらない外観。ドアを開けて、チキンハウスの玄関に出会う。玄関らしい玄関ではない。
目の前に出てくるのは、白いベンチ。それが、すぐ正面に広がるリビングとの仕切りにもなっている。
何度訪れても、ここには小気味よいリズムと、まっさらな清涼感に満たされている。
うれしくて、ため息が出る。
かつて吉田さんは、チキンハウスを象徴する煉瓦の壁を、来客があるたびに白く塗り重ねていた。その蓄積を物語るように、壁の煉瓦ひとつひとつが、塗料独特の丸みをたたえている。
「安物でつくるとね、その後が大変。きれいにエイジングしてくれる素材は、それなりにイニシャルコストがかかるものなんです」。
安価な工業製品でできた、手のかかる美人。チキンハウスは私と同い年、今年でちょうど40歳だ。
設計した吉田研介さんは、まだ30代だった1975年当時、経済的に手軽な材料をふんだんに用いたこの家に、拙宅=チキンハウスと名付けた。
お金がたくさんあったわけではない。子どもが出来て、それまでの住まいが手狭になったことから、地縁のない土地を手に入れた。
若手建築家がこぞって、自らの設計について、自邸によって宣言していた時代だった。
吉田さんも、手持ちのおかねで出来ることを考え抜いて、腕を振るった。その結果、採用された材料は、工場や倉庫などで使われるような工業製品ばかり。
狙ったわけではなかったが、吉田さんはこれを機に、自身の設計について「教会のようにさわやかに、工場のように安く」というモットーを掲げた。
モダンとリアリズムの両輪。それは、どんな素材を用いるにしろ、ひいてはどんな時代になるにせよ、あまねく人々のために良質な空間を作り遂げるという、建築家の普遍的な職能を物語った宣誓だった。
「でもね、それが大失敗だったんですよ」。
歳を重ねていくにつれ、同世代の施主たちは経済的に豊かになっていき、同世代の建築家たちは、彼らから仕事を得ていた。
そんな中、ローコスト建築家のレッテルは吉田研介という建築家にとって、大きなハンディキャップとしてのしかかった。
「すっかり、流れに置いていかれてしまって」と吉田さんは苦笑する。「自分という施主に、たまたまお金がなかっただけで、決してローコスト住宅専門家になるつもりではなかったのに」。
コックピットのようにどこか未来的なキッチンに、コンパクトながらエレガントな水回り、大胆なプラン。ひとつひとつ、厳選された家具たち。どれをとっても、現代の目から見ても余りあるほどに刺激的だ。
チキンハウスを見れば、鋭敏で、時代を先取りするような速度を持った吉田さんの感覚が、ビシビシと伝わってくる。そんな鋭さが、奇しくも吉田さんを苦しめた。
自身の感覚や信念と、時流との狭間で、吉田さんはどれだけ葛藤してきただろう。その姿を包みながら、チキンハウスは、なんだかケロリと明るい。
ケセラセラ、とハミングしているようにすら見える。明日は明日の風だもの。
ギリギリの予算で作られたこの小さな家には、実にさまざまな人が出入りした。
11畳ほどの小さなリビングダイニングには、建築家仲間に、教鞭を執っていた時代は教え子の学生たち。
それに、ロフトのようになっている2階は元々、吉田さんの設計事務所として使われていた。さらに3階まであって、そこにはかつて、吉田さんのご両親が住まわれていた。そして吉田さんご夫婦に、子どもがひとり。
それでもパンクしないでいられた要因のひとつは、徹底的に物を持たない生活の在り方だった。テレビを置くことも、チキンハウスの美学には許されなかった。
吉田家の一人娘は幼少時代、ワイワイと来客が賑わっている中ひとり、テーブルの下に潜って、そこにひっそり置かれていたテレビを見ていたという。
現在は成人し、独立して暮らしているが「食器やなんかを譲ろうか、なんて話をすると、とっても嫌がるんです。余計な物は持たないことにしているから、そんなことしないでって」。
もうひとつは、やはりこのリビングが、一種の聖域だったこと、それが訪れる人々にも暗黙のうちに理解されるほどの説得力を持った場所だったからではないだろうか。その証拠に、何度も撮影のロケーションとして使われることもあった。
めくるめく人々とその活動を受け入れ続けるこの空間の歴史を振り返るように、吉田さんは「舞台小屋のようなものだったのかもしれない」と呟いた。
何も背負っていないかのように、チキンハウスはいつも新鮮な白を纏って、軽やかな空間として、そこにある。
今回訪ねてその姿が、なんだか友人のように思えてきた。戦友かもしれない。
無駄な物を持たないことと同じように、無駄な経験を省く。そんな人生なんて、あるはずがない。本当は、いろんな物事を、たくさん重ねている。だけど、それを敢えて見せたりしない。時にやせ我慢のようであっても。
「いつもスカッとしていたいんだよね」。吉田さんは、窓の方に目をやって、そう言った。この場所のことでもあり、自身の生き方のことでもあるように思えた。
吉田さんがいつも堂々と、溌剌とされている理由のひとつは、まさにチキンハウスの存在にあると思う。建築とは、建物それ自体だけではなく、この空間が与え続けてくれる、目に見えない財産のことなのかも知れない。
■家の略歴
「チキンハウス」(設計:吉田研介):1975年竣工、木造(一部鉄骨)、地上3階。神奈川県川崎市の住宅街に建つ住宅。禁欲的な工業製品やローコスト素材を用いながらも、設計力と手間、技術によって気品ある佇まいを実現させた。謙遜の家、禁欲的な素材とは、その後も吉田さんの設計テーマとなった。現在も施主が材料の具合などを見学に訪れる。竣工当時は二世帯住宅として設計され、1・2階には吉田さん一家3人が、3階には両親が暮らしていた。現在は吉田さん夫婦が暮らす。1階の玄関を入ると南側に大きな開口部を持つ細長い2層吹き抜けのリビングダイニング、その隣にキッチンやお風呂などの水まわりスペース、その向こうに個室がある。子どもの部屋は増築と改装を重ね、現在は奥様の寝室となっている。吹き抜けの階段を上がった2階は当初は吉田さんの設計事務所として使われていた。現在は吉田さんの部屋となっている。(間取り図は竣工時のもの)
■建築家の略歴
吉田研介(よしだ・けんすけ)
1938年東京生れ。1962年早稲田大学第一理工学部建築学科卒業。1962年〜1964 年竹中工務店勤務。1964年〜1966年早稲田大学大学院理工学研究科建築工学専攻。1967年吉田研介建築設計室開設。同年、東海大建築学科専任講師、助教授を経て1985年同教授、2004年退任後、設計業に専念。http://chicken-house.jp
>「名住宅の時間」今までの物語はこちらから。
1話:家と主の、愛の関係「中心のある家」
取材・文:mosaki・田中元子/編集:mosaki・大西正紀/撮影:cowcamo