建築家による名住宅を、MOSAKI・田中元子が訪れる。
長く続いていく暮らしの断片を捉えた小さな物語。
第1話をお届けします。(続きはこちらからどうぞ。)


ついに、ついにあの家を訪れる時がきた。

阿部勤さんの自邸「中心のある家」は、建築好き、住宅好きの間では、知らない人がいないほどの知名度を持つ、伝説の住宅のひとつだ。

「本当に素晴らしいよ」。これまでに、何人もの知人たちが、恍惚の表情で訪れた感想を語ってくれた。

そしてその度に、私はこころに思うのだった。誰にとっても素晴らしく感じられる家なんて、あるものか。私だけは、騙されないぞ。

しかしそんなへそ曲がりな気持ちは、到着する前から脆くも崩れ去ろうとしていた。

阿部さんは、最寄りの駅まで私たちを愛車で迎えに来てくれていた。親と子ほど年の離れた建築家が、雨の日にひとり、傘を差して、車の横に立って。

私たちは阿部さんを見つけて慌てて駆け寄り、車に乗った。左ハンドルの、年期の入ったランドローバー。白いTシャツにジーンズで、軽やかに乗りこなす阿部さん。もう80歳を迎えようというのに、そこにおじいさんの姿はなかった。

私はいつの間にか、ワクワクした気持ちになっていた。家について肯定的な予感になったのはもちろんだが、同時に阿部さんというひとりの男性に、惹き付けられていた。

ほどなくして、あの家の前に到着した。

ロケーションは呆気ないくらい、ごく普通の、郊外の静かな住宅街だ。

その中の一角に、鬱蒼とした緑に包まれた領域がある。外壁のコンクリートが顔を覗かせているけれど、その全貌はもはや見えなくなっている。

家の真っ正面にも、大きな木が立っていて、界隈のシンボルツリーになっている。家が建つよりずっとずっと前から、そこで生きてきたかのように。

「ああ、これもね、植えたんですよ」。阿部さんは普通のことのように、そう言った。

壁の奥に、また壁がある。横に曲がって、玄関のドアを開く。目を見張り、少し緊張しながら、靴を脱いだ。そして、どうぞどうぞと引き入れられるまま、家の中をひととおり歩き巡った頃、私は泣いていた。

なんということだろう。こんなにしあわせな空間が、本当に実在するなんて。

いけない、気を取り直して、インタビューしなくちゃ。私は自分の表情を隠すようにして、事務的な口調で話し始めた。

「あの、阿部さん、この家は……」不本意にも声が裏返って、また涙が落ちた。

阿部さんはちっとも表情を変えずに「そこの角のソファに寝転がってごらん、気持ちがいいから」と促し、私はその通りにした。身を投げ出してみたら、波が引くように少しずつ、興奮が収まっていった。

この家を見て、感じ取ること。それはあまりに衝撃的で、とめどなく官能的な体験だった。

最初は2階に上がっていったのだった。玄関を入ってすぐ目の前の、小さめの階段を上って。

一段一段、階段の脇に本が積まれているけれど、嫌な感じはしなかった。突き当たりの納戸に荷物を置いて、それから廊下のような、細長い部屋のようなところを通って、やがて角に出る。

そこには長方形の、大きなソファがあった。

正確には、本か何かを積んだ上にマットレスを置き、エキゾチックな布をかけたものだった。そのことに、すぐには気付かなかった。そのくらい、素敵なソファだった。

次の角も、そんなふうになっていた。この家は、何をどこに置くか、どこでどう過ごすか、ほとんど決まっていないようだった。

そのかわり、どこででも、どうとでも過ごせそうだった。

今夜は月を追いながら。別の日は、朝陽が差し込むのを待って。眠りひとつとっても、気ままに旅をするように、家の中のさまざまな場所で、できるようになっていた。

ものに溢れる家だった。

家具、食器、石ころたち。一瞬一瞬、目に飛び込んでくる情報量は凄まじく大量で、なのに不思議なくらい、どの光景も騒々しくなく、落ち着いていた。

そして驚くべきことに、阿部さんはこの家に詰まった無数のものたち、それらすべてと、現在進行形で濃密な関係にあった。忘れ去られているものは、ひとつもないようだった。

阿部さんは、ひょいと手元のカレイドスコープを手渡して、光の世界を覗かせてくれた。

ほら、こんなカタチのもある、こっちもユニークでしょう? これはね…。阿部さんは、いきいきともののことを話してくれた。

でもそれはほんの一部で、本当はこの家の中のもの、どれにでももれなくちゃんと、話すことがあるようだった。

そのとき、全部わかった。

そうか、このひとは少年なんだ。この家は、あるひとりの少年の、宝箱なんだ。

しかも、ものを詰めて閉じ込めるだけの代物ではない。つい誰かに話したくなるくらい、大切になったものだけが、ここに住まうことを許されて、愛でられて、その分それらは、阿部さんを愛していた。

外壁を覆う緑が見え隠れする窓を見ながら、阿部さんは言った。「植物って不思議なんですよ、頼んだつもりもないのに、こうして窓の周りにチラチラ顔を出して、いい景色を作り出してくれる」。

このことは、この家をとりまくあらゆるものに共通していた。

手入れをしたり、面倒を見たり。水をやったり、拭いてあげたり。そうして関係を深めていったものすべてが、阿部さんの現在を彩るように寄り添って、家、庭、まち、そして時間や記憶と阿部さんを、シームレスに繋いでいた。

そうか。ものとは、家とは、愛するだけでなく、愛し合えるものなのか。

この家について知ることは、たとえ他人のラブストーリーであっても、不思議なくらい自分の琴線に響いて泣けてくる、一遍の映画に出会うようだった。

阿部さんはこの後将来、家を一体どうするつもりなのだろう。大事なことを伺い忘れて、電話をかけてみた。

質問すると「具体的に考えていることは何もありませんよ」と即答だった。やはり愚問だった。

阿部さんもあの家も、無数のものたちも庭の緑も全部全部、今まさに、お互いが愛し合っている最中なのだから。

■家の略歴

「中心のある家」(設計:阿部 勤):1974年竣工、鉄筋コンクリート造+木造、地上2階。埼玉県の住宅街、十字路に面した角地に建つ住宅。敷地の4辺それぞれに三角形のスペースができるよう、敷地に対して振って家が配置されている。玄関前の三角スペースは、周辺住民が通り過ぎたり、一休みしたりするパブリックな場にもなっている。1階は中心に3.6メートル四方の場所があり、それを囲むように"二重の囲いの場所"がある。"二重の囲いの場所"は、内部のような外部、外部のような内部の生活空間として、日々さまざまな使われ方がされる。西側の角にはつくりながら食べる自慢のペニンシュラキッチン(半島型キッチン)を配置。東南側は、半屋外のテラスを介して庭とつながっている。2階も1階同様、中心の場所の周りを二重に囲う。コンクリートで設えられている1階とは異なり、2階は木とガラスでつくられていて、窓越しの自然と一体化した明るい空間となっている。

■建築家の略歴
阿部勤(あべ・つとむ)
1936年東京生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業後、坂倉準三建築研究所勤務。アーキビジョン、アルテック建築研究所共同主宰を経て、1984年アルテック設立、現在に至る。住宅の他主な作品に「蓼科荘レーネサイドスタンレー」「賀川豊彦松沢資料館」「岡山県営中庄団地第2期」「横浜双葉学園」など。http://abeartec.com

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