気になるあの街はどんな街だろう。その街で活動するからこそ知り得る、街の変化の兆しや、行き交う人々の違いを「街の先輩」に聞いてみました!「街の先輩に聞く!」、 第53弾は「人形町」です。


人形町と言えば、甘酒横丁に明治座、水天宮があり、都内の観光スポットのひとつという印象がありますが、日本橋人形町と言うくらいで、広い意味で日本橋の一部でもあります。

日本橋は五街道の起点、町人の江戸の中心、現在ではビジネス街でもある街です。実際人形町に行ってみると、兜町や箱崎にほど近く、昼間はビジネスマンが非常に多い印象を受けます。

■江戸時代から栄えた商業の町

どうして人形町が観光地とビジネス街という2つの特徴を持つようになったのか。大正時代から続く人形焼屋さん「重盛永信堂」の専務・重盛永一郎さんはこの町の興りについてこう話します。

大正6年創業の重盛永信堂は、人形町駅から徒歩4分。水天宮の目の前にある。

七福神の顔を模した定番の人形焼。

江戸時代、江戸三座のうちの2つの芝居小屋が置かれて、人形浄瑠璃の人形を作る職人さんも多く住んだことから、この通り(人形町通り)が人形丁と呼ばれて、そこから人形町という町名がついたらしいです。

お話を聞かせてくださった、重盛永信堂の専務・重盛永一郎さん。人形町で生まれ育った。

江戸三座は幕府公認の歌舞伎小屋で、この内の2つ中村座と市村座があったことからこのあたりには中小の芝居小屋や浄瑠璃小屋などが集まり、それにともなって芝居茶屋や芝居関係者の住居が集まったのだとか。

▲人形町通りには、人形町のシンボル、江戸の面影を残す「江戸落語からくり櫓」と「江戸火消しからくり櫓」がある。共に毎日11:00~19:00まで毎時「00分」に動き出し、かつての街の様子を感じることができる。

甘酒通りを抜け、明治座に向かう途中にある浜町緑道には「勧進帳の弁慶像」がある。勧進帳とは歌舞伎の演目のひとつのことで、歌舞伎発祥の地を記念して建てられた。

ちなみに、明治座を越えたその先には浜町公園(その奥には隅田川)がある。中央区最大の面積を誇る公園で、運動広場やデイキャンプ場に、子供用の遊具もあり、サラリーマンから地域住民まで幅広い層に愛されている。

江戸の末期には、天保の改革により芝居小屋は移転しますが、商家が集まったことで、明治に入ると人形町は金融の街となります。例えば安田財閥の原点となる安田商店が開かれたのは人形町通り沿いだったそうです(後に現在みずほ銀行小舟町支店がある場所に移って安田銀行を開業)。

さらに、水天宮も人形町にやってきます。

子宝安産と水難除けの神社、水天宮。戌の日は特に参拝客が多い。

いま水天宮のある場所はもともと久留米藩の有馬家の下屋敷でした。有馬家は久留米にある水天宮の分社を上屋敷(現在の港区三田にあった)に作って、それを月に1回、御開帳してすごい人気ぶりだったんだそうです。それが明治になってこっちに移設されたんです。

水天宮が今の場所に移設されたのは明治5年、その水天宮にお参りする人に加えて、明治6年にできた明治座(創建当時の名前は喜昇座)や寄席飲食店に集まる人で人形町は大いに賑わいました。そして、それにともなって甘酒横丁人形町通り沿いの商店街も発展し、現在のような街が作られていったそうです。

明治6年創業、東京で最も長い歴史を持つ劇場、明治座。

甘酒横丁の名は、かつてあった「尾張屋」という甘酒屋さんに由来するそう。芳人町は、明暦の大火まで吉原があった場所で、明治期には芳町という花街だった。

寄席は今はなくなってしまいましたが、水天宮にお参りする方はたくさんいらっしゃいますし、今は明治座のお客さんが芝居見物の前後にお買い物に来られることが多いですね。

人形町は、江戸時代から今に至るまで沢山の人を惹きつけてきたのです。

■土地と人に残る下町風情

重盛永信堂さんの創業は大正6(1917)年で、松島町から人形町に移転し、昭和元(1926)年に今の場所に移転しました。人形町には他にもたくさんの老舗があり、かつての下町の風情を今に伝えています。

左上:宝暦10年(1760年)創業、鳥料理「玉ひで」。/右上:明治28年創業、すき焼き・しゃぶしゃぶ・日本料理の専門店「人形町今半」。/左下:昭和3年創業、手焼き煎餅店「にんぎょう町草加屋」。/右下:明治40年創業、豆腐・甘酒の「とうふの双葉」。など、人形町にはたくさんの老舗のお店が並ぶ。

昔から下町、つまり江戸城の城下町(しろしたまち)というのはこのあたりのことで、隅田川を渡った深川や門前仲町が下町と言われるようになったのはその後のことなんです。

下町の定義については諸説あると思いますが、もともと日本橋周辺が下町と呼ばれていたことは確かで、江戸の拡大に伴って下町と呼ばれる範囲が広がっていったという歴史があります。人形町通りにいるとあまり下町という印象はありませんが、隅田川沿いを行くと風景に下町の印象が強くなります。そして、下町の風情は風景だけではなくこの街に住む人たちにも残っていて、それが今のまちづくりを支えているようです。

商店街でも仲が良くて組織もしっかりしてるから、チェーン店であってもお店を出すと声をかけに行って、面倒見がいいんですよね。それで個人と個人のつながりができて、商店街全体で盛り上げようというふうになる。だから、イベントなんかもたくさんやっていて、15年前から年2回やってる「現金つかみどり」なんかはすごい人気ですよ。

人形町商店街内の様子。「現金つかみ取り」参加店で2,000円買うと福引券が1枚もらえ、抽選して特等が出ると1万円札、5千円札、千円札のつかみ取りができる。年に2回開催され、ちょうど11月24日(金)~12月8日(金) の15日間開催される。

■下町風情と住みやすさが同居する街

かつての下町風情が今に残る一方で、人形町は時代の変化を受け入れて来た街でもあります。

アーケードというものをおそらく戦後最初に作った商店街で、それが昭和26年です。昭和59年にはアーケードを撤去して、今度は電線を地下に潜らせるモール化をいち早くやって、植樹帯を作りました。

植樹帯ができた、人形町商店街の様子。

最近、特に小さな子どもを持つ30代40代が多く移り住んでいるという人形町。他の街に先がけて、10年も前からハロウィンのイベントもやっていたそうです。

子どもはどんどん増えてますね。保育園も増えてますし、小学校のクラスも増えてますから。周辺に中規模のマンションが次々建っているんですが、バブル期に建てられたオフィスがマンションに建て替えられている印象があります。

重盛家も代々通っているという、中央区立有馬小学校。蛎殻町公園に隣接しており、多くの子供達の姿が。

中央区の現在の人口は15万5000人、過去最低だった1997年の7万2000人から約2倍に増えていて、ここ10年の人口増加率は全国の市町村でもトップクラスだといいます。

やっぱり便利なんじゃないですか。ここに住んでいるとどこに行くにも「出ていく」という感覚なんです。東京の真ん中ですし、地下鉄の駅もいくつもあってどこに行くにも行きやすいですから。

確かに、人形町駅には日比谷線と都営浅草線、水天宮前に半蔵門線が走り、隣の浜町からは都営新宿線、茅場町から東西線にも乗れます。さらに、箱崎がすぐ近くなので、羽田にも成田にもアクセスがよく、東京駅も目と鼻の先。どこに出るにも交通の便がよく、非常に便利。若いファミリー層が増えているのも納得です。

水天宮駅前直結・箱崎ジャンクション直下の「東京シティエアターミナル(T-CAT)」からは、リムジンバスで羽田空港まで約25分、成田空港までは約55分で行くことができる。

実際に街を歩いてみると、ベビーカーを押す親子連れをよく見かけます。タワーマンションの一階にあるスーパーの前にはチャイルドシートが付いた自転車がずらりと並んでいました。

元祖下町の風情と人情を脈々と受け継ぎながら、変化を受け入れて住みやすさが担保されているのが人形町だと感じました。住んでいる人たちは江戸時代の職人から、裕福な若いサラリーマンに変わりましたが、この街はこれからも東京らしい元祖下町であり続け、その賑わいの中で人々の暮らしが続いていくのではないでしょうか。

重盛永信堂
住所:中央区日本橋人形町2-1-1
電話番号:03-3666-5885
営業時間:【平日】9時~20時 【土・日・祝】9時〜18時
休日:日曜(戌の日・大安は営業し、月曜日代休)
ウェブサイト:http://www.shigemori-eishindo.co.jp/

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