気になるあの街はどんな街だろう。その街で活動するからこそ知り得る、街の変化の兆しや、行き交う人々の違いを「街の先輩」に聞いてみました! 「街の先輩に聞く!」、 第71弾は「曙橋」です。
■意外と注目されない穴場な街
曙橋って、一体どんな街なんでしょう? 一度も降り立ったことがない方もけっこういらっしゃるのではないでしょうか。今回は都営新宿線の穴場的存在、曙橋の素顔を捉えてみたいと思います!
都営新宿線の駅表示を見てみると「曙橋」駅だけ他路線への接続がありません。意外にもこれが、「曙橋」の魅力のひとつと言えるんです。
地図:© OpenStreetMap contributors
こちらは、国土交通省が発表している地価公示を地図上に示したもの。接続路線がないこともあってか、地価が比較的抑えられているのです。
とはいえ、交通に不便さを感じることはないはず。このエリアは駅が密集していて、徒歩圏内には「新宿三丁目」駅、「牛込柳町」駅、「四谷三丁目」駅、「市ヶ谷」駅が。これらを合わせれば、使える路線は合計7路線にのぼります。
うーん、穴場!
■山あり谷あり、情緒あり
じつは 、曙橋という地名は存在しません。「曙橋」とは、橋・および駅の名前なんです。この記事で “曙橋エリア” としてご紹介するのは、駅北側にある住吉町、余丁町(よちょうまち)、南側の舟町、荒木町といった町たち。
駅の北側エリアでは「新宿」駅からたった2駅とは思えないローカルな雰囲気が漂っています。旧フジテレビ本社の近く、というとピンと来る方もいらっしゃるかも?
さあ、曙橋について “NO IMAGE” だったという方でも、 “いちご大福” ではどうでしょうか。今回お話をうかがうのは、「あけぼのばし商店街」にある老舗和菓子店「大角玉屋(おおすみたまや)」の三代目店主、大角和平さんです。
なんとこちらは、「いちご豆大福」発祥のお店なのです!
戦前、大角さんのお祖父さんの代からこの地で営業されている「大角玉屋」。三代目として受け継いだ当初は売り上げも多くなく、なかなか “塩” な状況だったのだとか……。
お店の改装を自らの手で行ったり(セルフリノベの先駆け!)、手書きの看板を出したりと、苦労の連続だったそうです。大角さんは『本当に、なんでもやりましたよ』と目を細めてその頃のことを振り返ります。
そして大ヒット商品となる「元祖 いちご豆大福」は、ひらめきと試行錯誤の中で誕生します。時は世が未曾有の好景気に沸く、1985年のことでした。発売開始後、あっという間に日本中で “いちご大福ブーム” が巻き起こります。なんとその影響で、全国の和菓子店の売り上げが3割も増えたのだそう!
何を隠そう、筆者もいちばん好きな和菓子はいちご大福! 大角さん、生み出してくださって本当にありがとうございます。
食べ物屋ですから、口に入れて美味しいのがいちばん大事。まじめにコツコツと、毎日少しずつでも進歩して、お客様に喜んでもらいたいですね。もう108年経つんですけども、そういった努力の積み重ねでやっています。
■軍都の要衝からテレビの街、そして現在へ
生まれも育ちも生粋の “曙橋っ子” という大角さんは、「あけぼのばし商店街」を運営する住吉商工会の会長も務められていました。
街の歩みをそばで見てきたからこそ、『曙橋はどんな街でしょう?』という問いには、一言で答えることは難しいよう。『いろいろありましたよ』と、この街の歴史を紐解いてくださいました。
このへんも戦前には軍靴を履いてサーベルを下げた人が通っていました。和菓子屋が5、6軒あって、休みの兵隊が小遣いで大福とかまんじゅうとかを買うので賑わって。
かつては近くに陸軍士官学校があり、軍人さんのお膝元として賑わったというこのエリア。ですが戦後になってもまだまだ交通の便のよくない “田舎町” で、新宿へ行くにも、当時はバスか徒歩しかなかったそう。
陸軍士官学校は戦後に自衛隊駐屯地となり、2000年ごろからは国防の中枢「防衛省市ヶ谷地区」として主要施設が統合されました。名前こそ「市ヶ谷」ですが、じつは最寄駅はここ「曙橋」。大角さんいわく、往時の敷地内は『緑がすごくて、セミやら何やら採り放題』だったそう。
そして、街が大きな転換期を迎えたのは、1980年のこと。大角さんたちが子どもの頃に “お化け屋敷” と呼んで遊んでいた、坂の上にある徳川屋敷跡地(※)にフジテレビの本社が移転して来ます。
※編注:明治期に尾張徳川家最後の藩主、徳川義恕(よしくみ)の屋敷が建てられ、この屋敷が戦前期にホテル「河田町会館」となった。
フジテレビができて、だんだんハイカラな街になっていきましたよね。街には芸能人もいらっしゃるし、テレビ関係者が利用するお店もできていきましたから。そのうち地下鉄も開通して、ずいぶん変わりました。
当時は商店街の通りも “フジテレビ通り” と呼ばれ、昼も夜もテレビ関係者の『おはようございます!』のあいさつが飛び交っていたのだとか。バブル最盛期に向けて世の中全体が盛り上がっていく中、街は “ギョーカイ人” のお膝元として大きく発展します。
ところが1996年にフジテレビがお台場へ再移転してしまい、街の空気はちょっとトーンダウン気味に…… そんなとき商店街は、数千人規模のハロウィンイベントを企画することで地域を活気づけてきました。その原動力となったのは『子どもたちを喜ばせたい』という思いだったそう。
フジテレビの跡には大きなマンションができて、それまでは芸能の街でしたけど、今度は住居としての街に変化してきました。いろんな人が入ってきたし、防衛省の本部もできたので、今はまた賑やかになりましたね。
業種が多様化し、商店街をまとめていくこと自体がどんどん難しい状況になっているという近年。『近くの他の街の商店街はもうどこも残っていませんからね。来てくださる地域のお客様ひとりひとりを大切にやっていこうと思っています』と大角さんは語ります。
■新宿近くの寛容な “田舎街”
ここ「あけぼのばし商店街」があるのは住吉町で、北上すると余丁町。そして駅の南側に行くと住所は舟町、荒木町となります。視野を広げて、“曙橋エリア” 全体のキャラクターについてもお尋ねしてみました。
荒木町のあたりは、奥に入ると細い道があって、路地に打ち水をしてしっとりした感じがいいんですよね。あそこは昔は花街でしたから、昔は芸者さんもいましたね。それが変化していって、銀座あたりのホステスさん向けの住まいが多かったり。だから昼は閑散としていて、夜はパッと派手になる感じですね。
飲み屋街があるので、治安の面ではどうだろう……? と思ったのですが、エリアのいいところをお伺いするうち、意外にも治安のよさが挙げられました。
このあたりは、交通の便はめちゃくちゃいいですよね。そのうえ、このへんは治安がかなりいいんです。新宿に近いわりに、田舎臭い街なんです(笑)。住みやすいと思いますよ。
■住む人のカラーに、街が染まっていく
それにしても、本当に…… 歴史の変化に富んだ街です。街の雰囲気を左右するような大きな施設が、入れ替わり立ち替わり現れて来たような印象です。“いろいろあった” からこそ、ここを『こんな街だ』とひとことにまとめることは難しいのです。
大角さんは、街の変化をこう捉えます。
時代によって、住む人の色合いがそれぞれ変わってきました。そのカラーで、街の方が染まっていく。そういうものかもしれないですね。
くるくると表情を変えてきた街の歴史を語る、大角さんの表情もまた、カラフルなのが印象的でした。『なんでもやりました』という「大角玉屋」のストーリーは、そのまま街のキャラクターにつながるように思えます。
穴場な街「曙橋」は、しなやかな柔軟性を持った、進歩の街でした。
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【INFOMATION】
和菓子処 大角玉屋
大角玉屋オフィシャルサイト。看板商品の「元祖いちご豆大福」の紹介のほか、都内3店舗の案内や、各デパートでの販売情報も。
取材・文・撮影:小杉 美香 / 編集:cowcamo編集部